見えないものを見るために

人生哲学 元図書館司書 図書館・情報学

自己顕示欲の塊たちよ

Facebookは戦場である。数あるSNSの中でも実名&現実志向が強く、繋がる人間たちも知り合いになりがちだ。

だからこそ、彼らはネガティブトークをしない。できるだけ華やかに、人から羨まれるような経歴と、毎日楽しくキラキラした日常を、これでもか、これでもかと、並べていく。

自分たちの成功について、他人からどう見られているかを重視して見せびらかそうとする。気持ち悪い世界である。


私は東京で中学からずっと私立に通っていたため、所謂「高学歴の世界」というものを少しばかり知っている。彼女たちはもともと裕福な家庭の出身である。親が医者、外資系、社長、地元の名士等々、ある程度金を持っている状態からスタートする子どもたちばかりであった。その子どもたちは大人になったらどのように成長するのであろうか。

それは二極化する傾向にある。出世するか、落ちぶれるか、どちらかにある。

出世したやつはFacebookで成功を語りたがる。

先日とある同級生のFacebookが繋がってしまった。彼女は、中学時代はそれなりに仲良くしていた「友人」であった。相手側のマウントが酷かったため、クラスが変わってからはすぐに疎遠になった人だった。そんな彼女のFacebookには、まるで人生のコレクションのような肩書きとアイテムが並んでいた。

「私立女子中高出身」、「有名大学出身」、「東大付属病院勤務(退職済み)」、ヨーロッパ在住。アイコンには子どもを抱える彼女の姿。名字は変わっていた。駐在妻ということか。

昔の私であったら、ショックを受けていたかもしれない。自分と同じ時間を過ごしたはずの同級生が、全く違う世界線を生きていたことを知ってしまったのだから。不思議と今はたいした気持ちの変化は起こらなかった。もう何人もそんなような人間を見て慣れてしまったからか?
それよりも思ったことは、たとえキャリアを築いたとしても、あっさり手放すしかなかったのかというやるせなさを感じた。女のキャリアとは一体…。就職してもすぐ辞めたのか。

人生コレクションの数々を全世界に発信している様子は白けるしかない。こいつも、自己顕示欲の塊だったんだな。これを見て、他の同級生たちは、どう思うのだろうか。悔しいってなるのだろうか。私は悔しさよりも、空っぽな気持ちになった。何も思えず、ただただキャリアを捨てたんだと、虚無感すら覚えた。

昔は他の成功した同級生たちに嫉妬をしていた時もあった。Facebookなんか見たくないと、消去もした。今は何故か心境の変化があって、格差社会について考えたりもする。現代日本では子どもの6人に1人が貧困状態だという。親が貧しければ、子どもも貧しい。そうした「貧困の連鎖」が社会問題になっている。

一方で、世の中には恵まれた集団が確かに存在している。恵まれた人々は、成功に繋がりやすく、その子どもたちもまた裕福な家庭を再生産する。「低学歴の世界」と「高学歴の世界」は、決して交わることはない。成功した彼女は、きっと努力は素晴らしいと思っているはずだ。努力とは、環境や遺伝子に影響されるとはついぞ思わないだろう。

ありきたりな話はこれまでに。どうも世の中では、親の財力が子どもの学歴やその後の人生に影響すると信じられがちである。実際は、出身する人、落ちぶれる人が半々で二極化する傾向にある。
言わずもがな私は出世できなかった勢にあるのだが、この話は傷をえぐるので触らないでいて欲しい。