見えないものを見るために

人生哲学 元図書館司書 図書館・情報学

ひろゆき氏が語る「フェミニズム」についてフェミニストだが一理あると思った

私はフェミニストである。活動はそんなにしていない。例えば上野千鶴子先生のセミナーにちょろっと顔をだしたり、wanの無料会員であったりする程度。しかし、性暴力や差別は許せない。NPO法人「若草プロジェクト」や「bondプロジェクト」等に共感している。女性の貧困問題など社会的な課題は解決していくべきである。(格差の是正というのがそもそもの私のやりたい仕事の一つである。)


そんな中、フェミニスト界隈では以下の記事がざわつき始めていた。
m.huffingtonpost.jp


HUFFPOST発である。このメディアはどちらかというと穏健な社会派というイメージだったので、フェミニスト寄りの記事なんだろうなと思ったのだが、どうやら違ったようだ。周りに批判している人が多いため、見る価値はないだろうと無関心でいた。さっきまでは。夜中に眠れず暇なので、つい見てしまった。

感想としては意外だった。「理解できる部分もあるな」と。主に以下の点だ。

「自由に働けることが良いことである」という価値観でいくとそうなんですけど、別の基準で考えると一概にそうとは言えないんですよね。

→確かにジェンダーギャップ121位の日本でも、健康部門では成績トップに食い込むそうだ。これは体の作りの問題でもあるが、女性が家庭内を牛耳ってきた(あるいは押し付けられてきた)、男性の家庭内進出が進んでいない問題でもある。だから、(男女賃金格差がない)共働き、家事分担は大事なんだよな。
ちなみに、香港は男女賃金同等で共働き+家事外注みたいな世の中で、男性が料理や育児するのは普通だそうだ。あと、圧倒的に女性の方が強い。在日香港人や中国人が日本の女性を女神と崇めていた。彼らに言わせれば、「港女は世界一の高望み」だそうだ。知らんけど。おまけに中国だと男は家や車がないと結婚できないらしい。「日本男は仕事があれば日本女と結婚できる。中国の男は辛い」と言っていた。中華圏の女性が強いのは共働きしないと生活できないのがあるのかもな。逆にフィリピンは女性管理職多い一方で、男が働かないらしい。

他人の経験や本などから学習できる人って少数派で、自分の経験からしか判断しない人はやっぱり多いと思います。そういう意味では、「自分と違う人は見えない」というのが多数派で、それはなかなか変わらないんじゃないかなぁ

→これはそう思う。誰しも色眼鏡で世界を見ている。 私も女という立場で物を話してしまっているし。
ひろゆき氏が専業主婦と猛烈に働く父という昭和のステレオタイプ家庭で育ったから、私のようなどっちの親もそれなりに忙しい共働き家庭出身とでは、価値観が噛み合わない。そして、今はこの共働き世帯というのが既婚者の場合はマジョリティになっている。既に価値観や現状のズレがひろゆき氏には生じている。また、これが一人親世帯だとか、親がいないで育っただとか、ケースによっては、また違ってくるはずだ。

やはり結局は自分の経験や見える範囲でしか物を語ることができない。誰もが色眼鏡をつけて世界を見ている。その自覚は大事で、誰しも中立にはなれないからこそ、せめて社会制度や仕組みは平等でなくてはならない。更に平等とは、何から何まで同じの絶対的平等ではなく、辛さを埋める相対的平等なんだよな。目が見えにくいなら眼鏡をかけるし、耳が聞こえにくいなら補聴器をつける。何も見えない状態で、見えるように動け、見えるように努力しろというのは無理な話だ。
けれど、人間は他者の痛みに共感することはできる。自分がもし当事者になったとしたらどうなるのかと考えれば、変えた方が良いことはたくさんある。ロールズの「無知のヴェール」が近い。ひろゆき氏の場合は、育児も落ちついて楽に見える専業主婦の親を見てきてしまったから、経験として楽という図式があるのだろうけれど、それも一部であり、色眼鏡なのだ。(それは氏もわかっているのだと思う。すると、徹底的に互いに話さないとわからないじゃんになってしまうな。)


一方で理解できない、納得できなかった点がある。

日本の男性には「生まれ変わったら女になりたい」っていう人、そこそこ多いと思うんですよね。

→私は男性になりたかった人間で、周りのキャリア勢はみんな生まれ変わったら男派が多い。インターネットの調査だと、転職サイト系メディアは生まれ変わったら男派が多かった。一方で、生まれ変わったら今の自分の性と同じ派が多いという結果のメディアもあった。置かれている環境によって違うと思うで。あと、強者女性になれるかなんてわからないしな。美人は波瀾万丈の人生を送っている人も多い。自分がそう感じたからという酸っぱいブドウに似た妄想が入っている。


・新書の読者はおっさんだがら男女平等の話は読まれない。
→20代から新書ユーザーの女であった私は悲しい。「女性活躍に翻弄される人々」、「夫のトリセツ」、「最貧困女子」読まれているジェンダー関連の新書も結構あるのにな。しかし、タイトルに「フランス人」ついている文庫本多いな。売れるのかしら。新書はタイトル勝負だし…。


私はインターネットにはダイヤルアップ接続時代からいるので、かなり初期からのユーザーである。2ちゃんねる電車男より前から知っていた。あの時はYahoo! JAPANの方が強かったな。確かにあの頃のインターネットは男社会だった。体感としては、男の中でもオタクの男というか、今で言う「非モテ系」や「弱者男性系」が多かったんじゃないか。同じような属性の人たちが、身内でわちゃわちゃやっている感じ。今はインターネットもグローバルで開かれた場所になったから、いろんな意見とそれに伴う対立が可視化されるようになったんだろうな。


私は女として生まれたから、差別や性的に嫌な思いは相応に経験した。だからこそ、おかしな社会制度や格差はなくすべきだと強く思っている。そういう意味では、ミソジニーとミサンダリーの対立は、ベクトルが違うのかなと思いつつ、互いに殴り合うならやりたいようにやれば良いじゃないかと感じる。問題は、共通の課題や敵を見失いたくないなという部分。見えない辛さをなくす、バリアをなくすのが真の目的でありたい。それを再確認するのには悪い記事ではなかった。そんなように感じた自分が意外であった。